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2005/04/27

センセイは何故国歌に拒否的なのか?

何故、教員(の一部)は、国歌の斉唱に拒否的なのだろうか?

リンク: Sankei Web 社会 君が代斉唱命令は合憲 教諭減給処分を取り消し 福岡地裁(04/26 13:49).

「君が代」に宗教的意味があったとしても、我が国の国歌であることに変わりはない。国歌を歌わない国民を作ることが、教育的に意味のあることなのかどうかを議論していただきたい。センセイガタの個人的、もしくは先生集団的なイデオロギーとか考え方とかポリシーとかイズムとかそういうことを抜きに、教員が国歌を歌わないことが生徒児童に与える教育的影響について、もっとまじめに議論していただきたい。

センセイはセイト(ジドウ)あってのセンセイであり、セイト(ジドウ)なきところでは単なる一人物であることを、もっと深く認識するべきだと思うのですが…。

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文化・芸術」カテゴリの記事

コメント

わたしはサッカーなどで君が代を自主的に歌うのはいいと思っています。しかし学校で歌わせられるのには反感をもちます。歌うのと歌わせられるのとは違うと思います。

教わる側であれば、確かに「強制されている」「強要されている」と感じると急に窮屈になり、「じゃぁ歌わねぇ」になるのは(自由を求める)人間としてもっともだと思います。

たとえばサッカー、競技場でわき起こる君が代、鳥肌が立つほど感動的だったりします。その瞬間、私たちは日本国民としての誇りを胸に君が代を声高らかに歌っています。

我が国を誇りに思う気持ち、日本国民としてのアイデンティティは、競技場だろうが卒業式の体育館だろうが、何ら変わりはないはずです。

日本国民を育てる学校教育の現場にあって、教育のプロフェッショナルである教員が、国歌の斉唱を躊躇することの、教育的な意味を問いたいのです。センセイの個人的な感情とか考え方とかは、この際どうでもいいのです。

国際試合やオリンピックで、君が代が歌われない大会は、やっぱり寂しいです。歌える人(考えを持ち歌わない人を含む)を育むこと、それが教育者・指導者としての役割ではないかと考えるのです。

お返事に感謝致します。

管理人さんが「(自由を求める)人間としてもっともだ」と仰るように、意見の相違を認めあう国であってほしい、と思います。文章中問題にされているのは教諭減給処分問題ですが、これは明らかに思想弾圧です。むしろこちらを問題とすべきではないでしょうか。

もちろん意見はいろいろあるとしても、いっぽうの意見をちからでねじ伏せるような行為は絶対によくありません。わたしには「教員としてのあり方云々」以前の問題であるように思えます。民主国家としての資質の問題です。もしわたしがウヨクおじさんであったとしても、こういう処分には絶対に反対すると思います。

本当にいや~な国になりました。こういうことが度重なると、どんな場でも君が代は歌いたくありません。

教えるときに教えないと、「君が代」を知らない子どもができあがる。コッキコッカの議論ができなくなることを恐れているのです。

相対する意見があることを教育しないことは、それこそ究極の思想弾圧ではないでしょうか。

君が代という歌の存在を教えることについては誰も反対していません。そういうことが問題になっているのではありません。

また教育しないことは「弾圧」の範疇ではありませんし、ましてや「究極」でもありません。減給などの行政処分では、人物に対して一方的にある行動を強いることができますから、そもそも教育しないことと同一に語ることはできませんね。

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