ジモト




Twitter

最近のトラックバック

無料ブログはココログ

2010/05/01

ゴールデンウィーク

那須へ! と思っていたら、29日からムスメが発熱、昨日からもれなくムスコも発熱。
のんびり連休に決定!
たまには、そんな休みも大切。

続きを読む "ゴールデンウィーク" »

2007/10/23

かいかいのおはか

先週、保育園の遠足でマイクロバスに乗って海に行ってきた5歳のムスメ。意気揚々と「貝、拾ってきたよ!」と。「ちゃんとしたヤツもあるぞ!」と自慢するので、ビール飲みながら「フンフン…」とテキトーに返事してたら、中身のある貝が出てくる出てくる(しかも食えないくらい小さい!)。さすがに驚いて、「海の水がないと死んじゃうぞ」と言うとムスメもたいしたもの、「ちゃんと水も持ってきた」と洗面器に半分くらいの海の水…(どーやって持ってきたやら)。
それでも週末は何となく遊んでいたが、
「あ゛!!」
やっぱりそこは子ども、ちゃんとお約束どおり海の水をこぼしてしまう。程なく、
「ぁ…」
ムスメの言う「ちゃんとしたヤツ」が割れて、中身が飛び出てきた。「あ、割れちゃったね。」
その後、いろいろ引っ張り出してきて何やらひとしきり。

しばらくすると、お菓子の箱に貝を全部入れてこの紙をぺたり。

「かいのおはか
(貝) (貝) (泣)
ちんちんして
なむなむしてね」Img_1842

2007/09/06

武道必修

大賛成だが、果たして「道」を教えられる教員がどれだけいて、それを吸収できる子どもがどれだけいるのだろうか、と心配になる。

リンク: 中学で武道必修化へ 中教審体育部会 「伝統文化」重視で|学校教育|教育・福祉|Sankei WEB.

2007/01/29

親育て

 子育てができない親を育てたのは、紛れもないこの国だということに、どうして誰も気付かないのだろう?
 戦後の高度経済成長は確かにめざましいものがあったが、彼らを育てたのは戦前戦中の親であった。今、その社会性が問われているのは、戦争を知らない世代が育てた親たちである。

子供以下の親 身勝手な論理、平然と

 親だけが問題なのではない。そんな親に育ててしまった社会に根本的な間違いがあるような。特定個人の問題でなく、親育てのチカラが衰退してしまったのだろう。しかしだからって教育再生(?)ってのも右傾化しすぎ。うかうかしてたらそのうち教育勅語や皆兵制が復活する。

ダイジンが!!

このレベルだから、この国で子育てなんてできやしない。
ほかの閣僚や政治家の発言ならまだしも、ねぇ。与党の女性議員たちはどう感じてるんだろう?

2006/10/01

二足歩行

1歳3ヶ月のムスコ、ようやく本格的に歩こうとし始めている。歩けそうなのに歩かない。どうも楽な方に流されている風で、努力が感じられない。ハイハイの方が速いし転ばないし、そりゃまた合理的だけど、やっぱり「そろそろ歩いたら?」と言いたくなってしまう。
歩くことも増えてきて、歩いているときの得意そうな笑顔をみるに、「ほれ、歩くのもなかなかいいだろ?」と思わず言ってしまう。

これが一人目だったら毎晩眠れないほど心配したんだろうなぁと思うと、やっぱりかわいそうな二人目…。

金魚

夏に金魚を5匹買ってきて、ムスメが毎日せっせとエサをやっていた。数週間も経つと、人の足音で寄ってくるようになり、「かわいいねぇ」と言っていたところ、猫にやられてしまいあっけなく全滅。つくばいに浮き草と金魚という組み合わせが罰当たりと言われればそれまでだが。それから一月、懲りずにまた金魚を買ってきた。

喜ぶかなと思いきや、表情が微妙。やっぱり猫にやられたショックは大きいらしく「ふた、買ってきた?」と。ふたも考えたけれど、足音で寄ってくる金魚の姿が見えなくなるのが寂しくて、猫よけのイヤな臭いを出す固形物を使ってみることにした。

「ちっちゃいねぇ」と言いながら、ビニール袋からつくばいに移し、早速エサをやるが一匹も寄ってこない。ちょっぴりさみしいムスメでした。

2006/06/26

英断

これ以上にない痛みを、それでも公にする勇気。
犯罪被害者の悲しみがここにある。

リンク: 「実名で性的被害真実伝えて」広島女児殺害父が要望 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞).

「7歳の女の子に性的暴行を加えるのは拷問に等しい。例え生きていても、性的暴行の苦痛は一生消えず、その時点であいりの人生は終わってしまったのではないかと思う。犯人は1度ならず2度、命を奪ったようなものだ」

2006/06/17

うちの県じゃないからいいけど

"かつて,本県においては,同和教育に対する誤った考え方から,生徒が問題行動を起こした場合,生徒自身の責任より,問題行動の背景にある社会や大人の責任を重視するということがありました。"

何が「誤った考え方」なのかわからないが、問題行動の背景を探らずして何ができるのか。行動だけに「寛容なく」対処していくことが、果たして教育といえるのか。「毅然とした指導」は、教育者としてもつべき当然の資質で、それができないのは教育者の質に問題があるのであって、システム論で解決はできない。必要なのは「毅然とした指導」と問題行動の背景を探ることができるチカラであり、それを合わせ持ってはじめて「先生」と呼べるのではないか。

まったく、アホらしくてついていけない。

ゼロ・トレランス(教師に対する)

今日の新聞に出ていたので、ちょっと調べてみた。ひどい話だ。腐ってる。

"「ゼロトレランス」とは、もともと、「不良品を許容しない」という産業界の考えだったが、「子供を不良品にしてはいけない」という意味で、その考えが応用された"

子どもは、決して品質管理される「モノ」でない。成長する可能性を秘めている、かけがえのない育まれるべき存在である。「不良品は排除されるべきモノ」という産業とは決定的に違っている。そして、ひとりひとりの育ち方、生き方がある。ここで「不良品」呼ばわりされる生徒をいかに育んでいくか、それがまさに教師の専門性であり真骨頂ではないか。その成長の過程がまさに教育でありである。選別するのが教育ではない。障害児教育におけるインクルージョンとかインテグレーションとか、その周辺はむしろ教育の概念だったはずだ。

「不良品」な子どもたちとの関わりの中で、学校が彼らを不良品として選別し、排除しようと躍起になる姿を目の当たりにしてきた。育まれるべき生徒が、育むべき教師たちから見捨てられる。それが教育だというのなら、今のこの国の教育は腐敗している。

本当に必要なのは生徒に対するゼロトレランスではなく、教師に対するゼロトレランスだ。
教師の知識や経験、(言いたくはないが)モラルや社会性、教育に対する情熱であるとか、そういったことに「寛容なく」教師を育んでいかなければ、本当の教育は学校に根付かない。
ゼロトレランスとは、「規則と、その規則を破ったときの罰則を定め、例外なく遵守する」ことだそうだ。教師の質に一定の規則を定め、例外なく遵守したらどうなるだろう?

より以前の記事一覧